「Hoo!Ei!Ho!」とザ・フーエイ・フォー
昨今、クラブが風営法によって摘発されていることがニュースになっている。
特に関西の状況はかなり深刻だそうだ
ASCII.jp:関西は「もうなくなりそう」、風営法で危機に瀕するクラブシーン|四本淑三の「ミュージック・ギークス!」
風営法に関しては「もう60年以上前の1948年にできた法律」という言われ方をするけれど、1984年に大幅改正があった。
この際に名称が「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に変わり、「営業時間は午前0時まで」という規制が盛り込まれているので、実質的に現在問題になっていることは1984年の改正から始まっていると考える方が正確だろう。
今年に入り、坂本龍一さんらが呼びかけ人となって風営法の規制対象からダンスを削除するように求める「Let's Dance」という活動も始まっている。
しかし音楽の世界で、1987年の時点で風営法に対する批判を展開した曲がある。
President BPM(近田春夫)だ。
正確にはBPM PRESIDENTS featuring TINNIE PUNX(こちらは高木完と藤原ヒロシのユニット)名義で発表された『Hoo! Ei Ho!』がそれだ。
現在の水準からすればラップのスキルなどは拙く聞こえるかもしれない(韻の踏み方など)。
しかし、1987年の時点で、ヒップホップという表現を用いてかかるテーマを取り上げたというのが素晴らしい。
この曲の持っている射程距離は2012年の現在にも届いている。
これぞ日本のヒップホップのクラシックと呼ぶにふさわしい1曲だろう。
なお、この曲がリリースされてからおよそ10年後に、YOU THE ROCK★が『Hoo! Ei! Ho! '98』と題してカバーを発表している。
こちらの正バージョンはPVもあるけれど、ここでは近田春夫がゲスト参加し、センチメンタルなトラックがハマっているCHAMP ROAD REMIXのほうを紹介しよう。
なお、President BPMの音源は現在すべて廃盤だ。
ぜひ、この機会(?)に復刻してほしいものだ。
さて、風営法をからめたラップ曲というと、実はもうひとつ存在する。
謎のユニット「ザ・フーエイ・フォー」の『みっちゃんとキョーちゃんの場合 《風俗篇》』だ。
これは今年3月に「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の“ラップ歌謡祭リターンズ”という特集で取り上げられ、大きな話題を呼んだ。
いかにも下品な内容だが、あまりエグさはない。
80年代的な陽性の下品さはちゃんと芸になっている。
そして二人の掛け合いによって展開される5分間のストーリーテリングの完成度は昨今のラッパーでもなかなか聞けないレベルだ。
驚くべきことにこの曲は1985年リリースというから、なんとPresident BPMの『Hoo! Ei Ho!』よりも先なのである。
「当時せのちんさんも聞いたことがある」とか「ラジオでサンプラザ中野が絶賛していた」という証言もあるので、コミックソングとして多少はメディアで流れていたようだ。
実は近田春夫はこの曲を聴いて『Hoo! Ei Ho!』の着想を得たなんてことは・・・まあ、ないと思うけど可能性はゼロではない。
なお、「ザ・フーエイ・フォー」というユニット名はザ・ブロードサイド・フォー(黒澤明の息子がやっていたフォークグループ)とかクール・ファイブみたいな数字をつけるグループ名の様式と「風営法」という言葉をかけた洒落であって、特にヒップホップ文化とは関係ないと思う。
当時はどう受け止められたかわからないけれど、この曲の内容でグループ名が「ザ・フーエイ・フォー」というのはかなり良いセンスではないだろうか。
ぜひこの曲も復刻して欲しいものだ。いや、別にしなくてもいいけど。
レバ刺しを食べてきたわけだが
7月からレバ刺しが禁止になるということで、昨夜、下北沢の焼肉屋「肉人」(これで“ニクンチュ”と読む)に行ってきた。
刺し物とホルモンの種類が豊富で、赤身も絶品。
価格も良心的で、個人的には下北沢で一番の焼肉屋だと思っている。
この店ではテーブルに七輪を乗せる前に刺し物を頼むのが定番で、特に2㎝はあろうかという分厚いレバ刺しが有名だ。
その厚みはこの写真をみてほしい。
もしもコレを地下から出てきたカイジが食べれば「うまい!うますぎる!犯罪的だ-!」と叫ぶに違いないが、7月からは冗談ではなく本当にイリーガルなブツになってしまうのだから困ったものだ。
私自身はレバ刺しは好きだし、他の部位の刺し物もよく食べる(ちなみに上の写真で左に見切れているのはハツ刺しだ。これも絶品)。
だが、レバ刺しに限らず生食に抵抗のある人は多い。
生肉は子どもには食べさせてはいけないというのも当然だし、理解できる。
もともとレバ刺しだとかユッケといった類はある種のゲテ食に属するのであり、専門的な店が相応の手間を反映したしかるべき価格で提供し、オトナがそういった信頼できる店で楽しむものだろう。
そのような“民間の規制”で事故は防がれてきたはずだ。
「チェーン店だから安心」みたいな体裁で客を騙して、ずさんな管理のもと280円のユッケを提供するなんて言語道断。
しかし、それはその店に問題があるのであって、ユッケやレバ刺しそのものを法律で規制するのは過剰反応ではないかと思う。
ただレバ刺し禁止の一件で、いろいろなものが安価で食べられるようになったことに慣れすぎていたんだなと自戒もした。
食品業界の技術や流通の発展、あるいはデフレの進行というネガティブ面もあるけれど、お寿司などはもはや「安くて美味しいモノ」の代表格になりつつある。
回転寿司の一皿100円を当たり前と思っているけれど、ほんのひと昔前は生の魚はあんなに安く食べられなかったのだ。
そもそも「280円のユッケ」なんて直感的に“おかしい”“危ない”と思わなければいけなかったのではないか。
消費者としてそういった嗅覚を失わないことも大切だと思う。
映画「ももへの手紙」を観た
平日に休みがあったのでいくタイミングを逃していた『ももへの手紙』を観にいきました。
もう公開から時間が経っているので上映終了しているところも多く、角川シネマ新宿のスクリーン2(少し小さめ)に行きました。
沖浦啓之監督の『人狼 JIN-ROH』以来実に12年ぶり(!)の作品ということなのですが、前作とは趣のまったく異なるストーリーを手がけています。
この飛躍はなんとなく片渕須直監督が『BLACK LAGOON』の直後に『マイマイ新子と千年の魔法』を作った感じを思い出させます(もっとも、片渕監督はコンスタントに監督作がありますが)。
昨今の劇場アニメは有名タレントを起用することが多いのですが、私はそれがかえって裏目にでてしまうこともあると考えています。
例えば『REDLINE』の「木村拓哉主演!」みたいな押し方とか、少し古い例では『マインド・ゲーム』の「吉本芸人大量出演!」みたいな感じは、本来その映画を観るべき客層へのアピールにはマッチしておらず、その作品にとってやや不幸な結果をもたらしていたのではないかと思います(実際に作品を観れば今田耕司さんの快演が『マインド・ゲーム』の魅力だということは納得できるのですが)。
『ももへの手紙』では、優香さんや西田敏行さんが出演しています。
しかしこれは、かの高畑勲監督が『おもひでぽろぽろ』で行った「キャラクターデザインを声を演じる人に似せて作ればハズレなし!」という手法に近いような気がします。
プレスコまで取り入れた『おもひでぽろぽろ』ほど徹底してはいないにせよ、演じている人とキャラクターがみんな似ています。
それだけに、声を聞いても有名俳優を起用した時にありがちな違和感はまったく感じないですね。
あと、自分の世代は山寺宏一さんと言えば「キャッ党忍伝てやんでえ」のカラ丸や「魔神英雄伝ワタル」のクラマのイメージが残っているので、山寺ボイスでああいう口のとがったからす天狗・河童系キャラは嬉しいものがありました。
作品としては非常に丁寧な作りで、後半はきっちり泣かせにきます。
普遍的な泣かせの話を真摯に描けばやっぱり泣ける、というところでしょう(一部では「予告編だけで、すでに泣いた」という声もあるくらいですw)。
もちろん我らが西田局長*1もラストシーンで滂沱(ぼうだ)の涙だったとのこと。
少女と妖怪を出すとやれジブリのパクリだとかなんだとか言われそうなところですが、ジブリ的(宮崎駿的?)なハッタリをかまさず地に足の付いた描写に独特の味わいがありました。
ただ丸々120分というアニメ映画としては長尺な中で、あのイノシシのエピソードは数少ないアクションシーンというだけで、ストーリー的な必然性に乏しかったように感じます。
ちなみに終盤のお祭りで藁船を陽太の父親が海に押し出すシーン、海面にみっつの滴が浮かんでいる描写がちゃんとあります。
だから「ももへの手紙」をソラに送るのも、返信をももに届けるのもイワ、カワ、マメがやっているということなんですね。
なお、私が観に行ったとき、館内は20人くらいのお客さんがいたんですが、半分は小学校低学年くらいの女の子連れのファミリー客でした。
こういう環境で映画を鑑賞すると、「ああ、小さい子はここで笑うんだ」とか「親御さんはこういう場面に感心するんだな」なんてことがわかって、より作品の特徴がわかりますね。
もう劇場公開も終わりに近いですが、オススメの作品です。
SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者
昨夜、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を渋谷シネクイントで観てきました。
『SRサイタマノラッパー』シリーズの3作目で、北関東三部作の最終章とされる作品です。
私は多くの人がそうであるようにライムスター宇多丸さんがラジオ「ウィークエンドシャッフル」で激賞していたのをきっかけにこの作品を知りました。
2009年にユーロスペースでのリバイバル上映で一作目の『SRサイタマノラッパー』を観ました。
公民館でのライブシーンでは涙がでるほど爆笑し、ラストシーンでは本当の本当に涙してしまいました。
これはただラッパーを夢見る人の話じゃない。
自分のやっていることをまるきり理解されない相手、絶望的にわかりあえない人たちを前にしても表現者であることをやめられない人たちであれば胸を打たれるに違いない。
そんな大傑作が『SRサイタマノラッパー』という映画です。
この作品の成功をうけて作られた『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』も新宿バルト9で観ました。
こちらは群馬の女子ラッパーを主人公に、前作の主人公であるIKKUとTOMも狂言回しとして登場する第二作です。
前作よりエンタテインメント性を増しつつ、女の友情や女にとってのグローイング・アップという難しいテーマを巧みに描いた良作です。
一作目を観た時は「ありあまる情熱と偶然によって奇跡的に生まれた傑作かもしれない」とも思ったのですが、二作目を観た時に入江悠監督が間違いない才能と技術を持っていると確信しました。
そして待望の3作目にして完結編が『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』です。
これは一作目に登場したIKKUと袂を分かつラッパー・マイティを主人公としており、一作目の直接的な続編と言ってよいでしょう。
これまでのコメディ色を残しつつも、暴力やトライブ間のしがらみなどこれまでの「SR」シリーズが避けてきたヒップホップの抱える暗部を描いています。
象徴的なのは、物語の序盤でせっかくMCバトルの決勝まで勝ち上がったマイティが、クルーの先輩に「相手は今度一緒に演るグループのメンバーだからわざと負けろ」と指示される展開です。
『8 Mile』であれば、このMCバトルの決勝がクライマックスです。
しかし、マイティは自分のすべてを投じるべき舞台そのものを、ヒップホップ的なしがらみによって剥奪されてしまいます。
『8 Mile』的成功の舞台に上がり損ねたところから、『SR3』の物語が始まるわけです。
正直この時点で、もうちょっと泣けてしまいました。
また、これまで1シーン1カットを旨としてきたこのシリーズですが、『SR3』のクライマックスではおよそ15分に及ぶ1カットがあります。
逃げなくてはいけないマイティが、かつての仲間達が上がっているステージの輝きに向かって、思わず歩き出す、あの背中!
第一作目から観てきた者としては、あのIKKUとTOMがようやくステージに立ったという喜びと、その夢から逃げようとしても引き寄せられてしまうマイティの悲しみが、15分の途切れの無い1カットで刻一刻と凝縮されていくという、比類無い映像体験を味わうことができました。
それにしても。
本当にこのシリーズはこれで終わりなんでしょうか?
まだまだIKKUとTOMの珍道中を観たい、マイティの復活を観たい、なんなら他のSHO-GUNメンバーのその後や、TKD先輩のかつての伝説の一端をもっと観たい。
アイツらにまた会いたい!
そう思わせるSR完結編でした。
『SRサイタマノラッパー』シリーズ、掛け値なしにオススメです。
映画『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』予告編
Wi-Fi HOME SPOTに申し込んでみた
auがWi-Fi HOME SPOTなるサービスを始めました。
スマートフォンを契約している人が5月30日までに申し込めば、なんと永年無料でWI-FI機器をレンタルできるということなので、WEBから申し込んでみました。
レンタルされるのはルータ機能は無い純粋な無線LAN機器という割り切った仕様ですが、5GHz帯にも対応しているということなので無料レンタルとしては充分でしょう。
このサービスはとにかくスマートフォンの通信にWI-FIを利用してもらってトラフィックを減らしたいという目的がはっきりしています。
言い方をかえれば、もはやタダでWI-FI機器を貸し出すほど通信設備が逼迫した状況にあるということでもあるのでしょう……。
ともあれ、使う側としてはあまりデメリットもないのでありがたく利用させてもらいます。
機器が届くのが楽しみです。
伊集院光vsZEEBRAの中二病論争
「Zeebraが伊集院光をディスった!」と話題になったのはつい昨日(20日)のことです。
※参考
いちおう、Togetterを見る限り、伊集院さんのDMでZebbraさんの誤解が解けて終結といった感じになっていますが、昨晩(20日25時)のラジオ「伊集院光の深夜の馬鹿力」において、伊集院光ご本人が「この人とはわかりあえない」「この人の言い分では、自分の作った言葉がどう使われようとそれにずっと責任を持たなくちゃいけないってことになるらしい。じゃあダイナマイトを発明した人はその後の戦争にも責任を持たなくちゃいけないの?」と語っていました。
この件についてネット界隈では「伊集院はオトナ、ZeebraはDQN」という風潮が強いのですが、私はZeebraさんの意見に近い立場です。
そもそも伊集院さんが自分の生み出した「中二病」という言葉について「もう僕の作った時の意味と違うから言葉自体に興味無いです。」というスタンスをとっていることに疑問があります。
言葉の生みの親として「あくまで自虐ネタであって他人を嘲笑する意味で使わないで欲しい」とかせめて「今の使われ方には違和感があります」くらいの姿勢は取るべきではないかと思うのです。
そもそも本人が自虐ネタとして作った言葉だったとしても、それが他人に向けられた瞬間に蔑称に変わるというだけのことです。
ラジオでこの言葉が生まれた瞬間から、その「意味」はなんら変化していません。
「僕の作った時の意味と違う」のではなく「使われ方が違う」のであり、伊集院光がこの言葉を生み出した瞬間からすでに蔑称としてのニュアンスを(意味としては)内包していました。
侮蔑的・差別的用法(“用語”ではなく)に使われうる言葉を流布した結果、「興味ない」というのは無責任な言いぐさでしょう。
これはその昔の「おたく」という言葉を巡る問題と似通っています。
ちゃんと書こうとすると長くなりますのでカンタンに。
「おたく」の名付け親と言われているのは中森明夫さんです。
まだ駆け出しのライターだった中森さんが1983年に「おたく」という言葉をコラムで取り上げ、これを当時掲載雑誌の編集部にいた大塚英志さんが「差別を目的とした言葉だ」として中森さんの連載を打ち切るにまで至ります。
このことについて中森さんは「ネクラのようなよりネガティブイメージを持つ言葉も多い中で、おたくには差別用法はあってもそれ自体が差別用語ではない」と反論しつつも、「差別意識があったことは否定しないし、自らの差別意識には自覚的でありたい」と述べています。
そして、89年に埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起き、「おたく」があたかも犯罪予備軍を指すかのような差別的言葉として使われた際には、批判者であった大塚英志さんとともに宮崎勤に寄り添う立場をとります。
それが「おたく」の名付け親と言われた中森さんなりの責任の取り方だったわけです。
おそらくZeebraさんが「中二病」という言葉に憤っているのは、それが「空気読めよ」とか「なに熱くなってんだよ」という言い方と同様に、真剣に取り組んでいる人や情熱を持っている人に対し安全な距離をとってナナメに揶揄してくる連中、自分は傷つかずにうわべだけの正論を振りかざしてくる連中に利用されているからでしょう。
それがZeebraさん流の「出る杭を打つ」という表現にこめられていると思います。
伊集院さんがラジオで明かしたDMの内容によればZeebraさんは「自分の作った言葉に責任を取れ」といったニュアンスのメッセージを返したようですが、これに自分は同意するのです。
伊集院さんは「ダイナマイトを作った人」=ノーベルを引き合いに出して「ダイナマイトを作った人は戦争にまで責任を負わなくちゃいけないのか」と言ったわけですが、ノーベルが自らの破壊的な発明に生涯苦悩し、そのことからノーベル賞を創設したというのはあまりに有名な話です。
ノーベルの故事を例に出すなら「責任なんて到底負えっこないけど、せめて自分にできることをするべきだ」というメッセージを受け取るのが真っ当な考えであり、「興味ない」と放り投げる自らの態度と並べるのはノーベルに失礼というものでしょう。
ここまで書いてきて言うのもなんですが、自分は「深夜の馬鹿力」を開始当初から聴き続けているヘビーリスナーです。
だからこそ感じるのですが、伊集院さんのラジオにおける自虐的な姿勢は、リスナーからの共感を得る部分が強いだけでなく、正面からの批判を受けても「しょせん自分はダメ人間なんで、サーセン」という態度で無効化してしまう強力な防御姿勢でもあります。
まさにマンガ『どげせん』の「土下座は暴力」にも通じますね。
そしてリスナーはやたらと伊集院さんを擁護したがるのも特徴です。
今回の「中二病」問題では、その嫌らしい部分が顕在化したように感じます。
実はこの「中二病」問題に限らず、伊集院さんはラジオの中で「ゆとり」「ゆとり世代」という言葉を明らかな差別用法で使っています。
例えば以前『チョコボの不思議なダンジョン 時忘れの迷宮』というゲーム(だったと記憶しています)を酷評する文脈で「ゆとり向け」「ゆとり世代にもわかりやすく作った」と嘲笑する調子で語っていました。
伊集院さんのこういう不用意な言葉の使い方はもっと指摘されてもよいと思いますし、当の“ゆとり世代”にあたる人たちはリスナーにも多くいるはずなのですが、批判の声をほとんど聞きません。
『沖縄ノート』の中で大江健三郎が虐殺行為になぞらえた差別的意味合いで「屠殺」という言葉を使っているのに彼だけがなぜ免責されるのか、と呉智英さんが指摘したことがあります。
なんとなくそれと似たような構造で、若いネットユーザーの中で伊集院光が擁護され免責される風潮があるのではないかと、今回の「中二病」問題で感じた次第です。
第十四回文学フリマ参加申込は本日締切!
第十四回文学フリマの参加申し込み締切は本日2/19の24時です。
もろもろ詳しい事は
http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20120219
に書いてます。
過去二回は震災の影響や会場拡大を踏まえて申し込み期間の延長や二次募集がありましたが、ぶっちゃけ、今回はないと思います。
「運命の女神と締切の女神は後ろ髪がない」という諺もあります(ウソ)。
参加ご希望の方は逃さず申し込みをしてくださいね。