事務局通信・別冊

文学作品展示即売会「文学フリマ」の事務局代表・望月の日記です。こちらは個人的な話題メインで書き連ねていきます。

伊集院光vsZEEBRAの中二病論争

「Zeebraが伊集院光をディスった!」と話題になったのはつい昨日(20日)のことです。

※参考

いちおう、Togetterを見る限り、伊集院さんのDMでZebbraさんの誤解が解けて終結といった感じになっていますが、昨晩(20日25時)のラジオ「伊集院光深夜の馬鹿力」において、伊集院光ご本人が「この人とはわかりあえない」「この人の言い分では、自分の作った言葉がどう使われようとそれにずっと責任を持たなくちゃいけないってことになるらしい。じゃあダイナマイトを発明した人はその後の戦争にも責任を持たなくちゃいけないの?」と語っていました。

この件についてネット界隈では「伊集院はオトナ、ZeebraはDQN」という風潮が強いのですが、私はZeebraさんの意見に近い立場です。

 

そもそも伊集院さんが自分の生み出した「中二病」という言葉について「もう僕の作った時の意味と違うから言葉自体に興味無いです。」というスタンスをとっていることに疑問があります。

言葉の生みの親として「あくまで自虐ネタであって他人を嘲笑する意味で使わないで欲しい」とかせめて「今の使われ方には違和感があります」くらいの姿勢は取るべきではないかと思うのです。

そもそも本人が自虐ネタとして作った言葉だったとしても、それが他人に向けられた瞬間に蔑称に変わるというだけのことです。

ラジオでこの言葉が生まれた瞬間から、その「意味」はなんら変化していません。

「僕の作った時の意味と違う」のではなく「使われ方が違う」のであり、伊集院光がこの言葉を生み出した瞬間からすでに蔑称としてのニュアンスを(意味としては)内包していました。

侮蔑的・差別的用法(“用語”ではなく)に使われうる言葉を流布した結果、「興味ない」というのは無責任な言いぐさでしょう。

 

これはその昔の「おたく」という言葉を巡る問題と似通っています。

ちゃんと書こうとすると長くなりますのでカンタンに。

「おたく」の名付け親と言われているのは中森明夫さんです。

まだ駆け出しのライターだった中森さんが1983年に「おたく」という言葉をコラムで取り上げ、これを当時掲載雑誌の編集部にいた大塚英志さんが「差別を目的とした言葉だ」として中森さんの連載を打ち切るにまで至ります。

このことについて中森さんは「ネクラのようなよりネガティブイメージを持つ言葉も多い中で、おたくには差別用法はあってもそれ自体が差別用語ではない」と反論しつつも、「差別意識があったことは否定しないし、自らの差別意識には自覚的でありたい」と述べています。

そして、89年に埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起き、「おたく」があたかも犯罪予備軍を指すかのような差別的言葉として使われた際には、批判者であった大塚英志さんとともに宮崎勤に寄り添う立場をとります。

それが「おたく」の名付け親と言われた中森さんなりの責任の取り方だったわけです。

 

おそらくZeebraさんが「中二病」という言葉に憤っているのは、それが「空気読めよ」とか「なに熱くなってんだよ」という言い方と同様に、真剣に取り組んでいる人や情熱を持っている人に対し安全な距離をとってナナメに揶揄してくる連中、自分は傷つかずにうわべだけの正論を振りかざしてくる連中に利用されているからでしょう。

それがZeebraさん流の「出る杭を打つ」という表現にこめられていると思います。

伊集院さんがラジオで明かしたDMの内容によればZeebraさんは「自分の作った言葉に責任を取れ」といったニュアンスのメッセージを返したようですが、これに自分は同意するのです。

伊集院さんは「ダイナマイトを作った人」=ノーベルを引き合いに出して「ダイナマイトを作った人は戦争にまで責任を負わなくちゃいけないのか」と言ったわけですが、ノーベルが自らの破壊的な発明に生涯苦悩し、そのことからノーベル賞を創設したというのはあまりに有名な話です。

ノーベルの故事を例に出すなら「責任なんて到底負えっこないけど、せめて自分にできることをするべきだ」というメッセージを受け取るのが真っ当な考えであり、「興味ない」と放り投げる自らの態度と並べるのはノーベルに失礼というものでしょう。

 

ここまで書いてきて言うのもなんですが、自分は「深夜の馬鹿力」を開始当初から聴き続けているヘビーリスナーです。

だからこそ感じるのですが、伊集院さんのラジオにおける自虐的な姿勢は、リスナーからの共感を得る部分が強いだけでなく、正面からの批判を受けても「しょせん自分はダメ人間なんで、サーセン」という態度で無効化してしまう強力な防御姿勢でもあります。

まさにマンガ『どげせん』の「土下座は暴力」にも通じますね。

そしてリスナーはやたらと伊集院さんを擁護したがるのも特徴です。

今回の「中二病」問題では、その嫌らしい部分が顕在化したように感じます。

 

実はこの「中二病」問題に限らず、伊集院さんはラジオの中で「ゆとり」「ゆとり世代」という言葉を明らかな差別用法で使っています。

例えば以前『チョコボの不思議なダンジョン 時忘れの迷宮』というゲーム(だったと記憶しています)を酷評する文脈で「ゆとり向け」「ゆとり世代にもわかりやすく作った」と嘲笑する調子で語っていました。

伊集院さんのこういう不用意な言葉の使い方はもっと指摘されてもよいと思いますし、当の“ゆとり世代”にあたる人たちはリスナーにも多くいるはずなのですが、批判の声をほとんど聞きません。

沖縄ノート』の中で大江健三郎が虐殺行為になぞらえた差別的意味合いで「屠殺」という言葉を使っているのに彼だけがなぜ免責されるのか、と呉智英さんが指摘したことがあります。

なんとなくそれと似たような構造で、若いネットユーザーの中で伊集院光が擁護され免責される風潮があるのではないかと、今回の「中二病」問題で感じた次第です。